人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

うまくいく人間関係

人間として生まれて生きている人は、いろいろな人間関係に悩まされ、それが「うまくいく」ことを願っているが、人間関係が「うまくいく」とはいったいどういうことなのか。悩みなく人間関係がうまくいっていると感じるときというのは、要するに「すべてが自分にとって心地よい」ときだが、人間がそれぞれ違った考えや生き方を持っている以上、「なんのひっかかりもなく、すべてがうまくいっている」ときこそ、裸の王さまのようなものかもしれず、「なにかがおかしいのではないか」と疑ってみたほうがよいかもしれない。

 

自分を曲げず、偽らず、なおかつ嫌われず、ということはほとんど不可能なので、まるでそうであるかのように思えるときは、「嫌われているが自分が気づいていない」か「意図があってよくしてくれている」可能性が高い。自分が好き勝手にふるまったら一部あるいは大多数の人間には不評だった、というバランスのほうがあり得そうな結果なので、どのようにふるまうにしても、一般的な受け止められ方については自覚的でないと、勘違いをしてしまうことがある。

 

相手が気持ちよく過ごすには、相手にある程度合わせる必要があるわけだから、自分が合わせるのか、相手が合わせるのか、結局は力関係で決まるところもある。結局、もっともよい関係で続くのは、お互いがお互いの許容範囲を心得ていて、自分を抑えることを最小に、出すのを最大にできる「親しき仲にも礼儀あり」な間柄であって、「なんでも話せる、なにをしても許される」という「理想の親友」じみた関係は、多くの場合、単にどちらかが合わせているだけなので、いずれ破たんするか、対等な人間関係ではない。

 

人間関係で悩む人は、他人との関わり方に理想を持ちすぎていて、他人が自分を理解すべきと思っていたり、自分が相手にかけているもの以上の見返りを、相手に求めている人かもしれない。人間関係がうまくいっていない、と感じる人は、「相手が自分の思いどおりにいかない」ことを嘆く前に、「自分が相手の思いどおりになっているのか」を考えたほうがよいかもしれない。自分が変わらないのに、他人を変えようという人は傲慢で、そのような傲慢な人たち同士が、歩み寄れない人間関係に悩んでいる。しかし、いったん「歩み寄れない距離」を認めたならば、案外、気持ちが楽になることがある。同じような関係、同じような対応でも、「自分は自分、人は人」と思えれば、印象も変わる。

 

人間関係がうまくいく、ということが、「自分に好意的で素晴らしい人格の人たちだけに囲まれて、毎日を楽しく仲良く過ごせる」というイメージを持っていると、人づきあいのなにもかもがうまくいかないように思えて辛くなってくるかもしれないが、「自分の軸をぶらさない範囲で、他人の軸も最大限に尊重しながら、無関心と賛否のなかで生きる」ようにしたときの人間関係が「うまくいってる」ときの状態だと思うと、現状認識も変わってくる。

不倫と人間関係

このところ著名人の不倫が立て続けに報道されていて、人によって擁護したりされたり、徹底的に叩いたり叩かれたり、さまざまだ。それは著名人に限ったことではなくて、一般にも不倫はかつてよりはるかに普及しているようなのは、スマホ等で個人がだれにも伴侶にすら知られることなく、個人的な人間関係を手軽にもてるようになったことで、「ばれなければいい」という、いわば倫理観の境界線上にあったような事柄のハードルが、低くなってきているのかもしれない。個人の、匿名に近い、一対一の関係になってしまえば、そこには既婚かどうかという「世間体」にたいして意味がなくなることになる。だから不倫をしてもその行為自体の持つ意味も同じく軽くなる、あるいはお互い愛しあっていればいい、とでもいうように不倫を許容するような言説については、首を傾げることもある。不倫の本質はお互いの気持ちや経緯ではなくて「重大な裏切り」が許容されるかどうか、だからだ。

 

不倫も恋愛、のようなことを言う人たちがいるが、不倫は結婚という「人生にかかわる重大な約束をやぶり裏切ること」または「他人の約束を破壊すること」なので、英雄色を好む、という話とは本質的に異なる。もし、夫婦が互いに了解のうえで行われていることならば、それは不倫とはいえないかもしれないが、ふつうはこっそり「裏切り」で行われることだ。巷には、不倫と一夫多妻制などを一緒くたにしてしまう人がよくいるが、一夫多妻制でも結婚外の異性に手を出せばそれは不倫であって、イスラム教徒で一夫多妻でも不倫は裏切りで罪なので、それは妻が何人いても同じことだ。もちろん生きていく中ではだれかを裏切る人間も当然いるだろうが、裏切りというのは他人からの強制ではなく、自分で決めることなので、いざことが起こったとき、「そのような人間は裏切りもので、クズだ」ということにしない限りは、結婚というものの価値が相対的に低下するし、じっさい、そうなっている。ひどい裏切りをしてもなお、擁護されてしまうようでは、それなりに意気込んで裏切った側にも張り合いのないことかもしれない。かつて「文学」になったことが、いまは「ふーん」で終わってしまう。

 

先進社会では「なんでも許容する」のがトレンドになっていて、ゲイでもバイでも不倫でも離婚でも、どんな宗教でも民族でも肌の色でも、なんでもよいというのが建前だが、「なんにでも同じように同じだけの価値がある」というのは「すべてに価値がない」のとほとんど同義だ。「建前で許容しているかどうか」を判定するには、自分がじっさい深く関わることになったときに示す反応がすべてではないか。難民を受け入れることに熱心だった欧州が、難民たちがいざ殺到して私生活にその影響が見え出したとたん、かれらを徹底的に締め出す方向に動いたのは象徴的だ。不倫に寛容な発言をしているような人たちも、自分の伴侶や子どもや友人、とくに娘がそのようなことをしていても、同じように寛容になれるのかが知りたい。そのような、建前にすぎない「なんでも許される」という社会の雰囲気が、たとえば結婚の価値をなくし、結婚する気をなくさせ、子どもを減らすことに一役買っている。「なんでもゆるされる」のはうれしい反面、他人も同じ条件だから、とてもこわいことだ。

 

だから、自由と安定は両立しないが、いまの日本社会では自由も安定もほしいというぜいたくな考えが、人びとだけでなく、政府にまで蔓延している気がする。たとえば、もしも社会の安定のために少子化を止めたいなら、いつまでも物分かりのいいふりをして「なんでもあり」にしていないで、「結婚はしないと恥」とか「子どもは産んだほうがよい」とか「不倫や離婚はするな」という風潮にしていけば、自由が減る代わりに社会は安定するはずだ。たぶんそのほうが、自由より不安の除去を重んじる多くの人たちによって、幸福の総量はふえるだろう。自由は尊いものに違いないが、多くの人はいざ自由を与えられて「なんでもあり」の世界に放りこまれると、扱いきれずに不安になっていくもので、じっさい、これだけ自由な国で自由な選択のできる若い人たちの多くが、公務員や大企業を志望することにあらわれている。政府があえて、不安定な結婚制度を看過することで人びとの不安をあおり、自由を放棄させて、かつての日本やドイツのように、強い国家によりどころを求めさせようとしているのだとしたら、なかなかの戦略といえるかもしれない。

家族の人間関係

いちばんはじめの人間関係は、ふつう、家族が相手になる。すべての人間は、うまれてくる子どもは、自分で家族を選べないので、人間関係のもっとも基盤になる、はじまりの部分は完全に運次第だ。少なくとも、家を出て自活できるようになるまでは、子どもが自分の力で家族の問題を大きく変えるのはむずかしい。程度はどうあれ、子どもの人生をコントロールしようとする親は数多いが、親が自分をどのように取り扱うかで、人生の印象が決まってくることもある。努力をすれば人生を変えられるのは事実だが、ぜったいに変えられないものもある。変えられないものについて悩んだり他と比べてもしょうがないので、生まれた環境が気に入らなくても、どうにか受け入れて、善後策を考えるしかない。

 

家族といっても、とくに最近はいろいろで、離婚なども増えているので、かならずしも両親がそろっていなかったり、血がつながっていない親子や兄弟なども増えているようだ。しかし、血縁というのは切ろうと思っても、自分の中にあるがゆえに死ぬまで切り離せない縁で、よいものでも悪いものでも、もっとも強い人間関係のひとつといえるかもしれない。誰もが誰かの血を引いて生きているので、人生を知るたびに、自分を知るたびに、血を意識するということは増えていく。

 

時代の流れが、家族関係を大きく変えている。携帯電話やインターネットが普及しはじめてから、子どもの交友関係などがわからなくなって、どことなく、同居している個人のようになってきているところもある。それは親子だけではなくて、夫婦もそうかもしれない。かつては家庭内に逃げ場はあまりなかったが、いまはわりと容易に逃避ができるので、向き合う努力よりも遮断するほうを選ぶ人も増えてきた。それはよいことかもしれないし、悪いことかもしれないが、かつてのような家族関係が崩壊しかけているのは、たしかなようだ。

 

いまは年長になるほど受難の時代かもしれない。親は子どもをしつける立場だが、ネットなどで検索すれば、一般的な情報はすぐに得られるので、年長者の知恵というものが、子どもに対してあまり有効でなくなっている。かつては、年老いて思考スピードや運動能力が落ちたあとは、経験からくる知恵や知識で尊敬を集めていたものが、個人レベルの知恵や知識が軽視されるようになると、もはやただ老朽化しただけで、じっさい劣化などという言葉がよく使われている。若い人にとって、一時的にはよい時代かもしれないが、年を重ねることが劣化でしかなような世界は、だれにとっても生きづらく、若い人にも希望がない。

 

結婚しない人も増えているが、男女平等や個人主義が強くなったぶん、家族というものが持っていたよいところが、なくなりつつあるからかもしれない。家族制度が強ければ、束縛は多いが安定もある。女性が男性に経済的に頼っていた時代のほうが、よくもわるくも結婚の持つ意義は大きかったが、なにもかも平等に近づけてみると、結婚できない女性も増えて、けっきょく、女性のほうを苦しめることにもなっている。男は男で、便利な世の中になって、ひとりでもどうにかやっていけるので、不安定で面倒な結婚をするくらいなら、ひとりでいたほうがよいという気にもなったりする。

 

家族、あるいは血族というものは、必要性のうえで強くつながるものなので、人間関係が多様化した便利な社会になって、ひとりでもどうにか生きていけるようになれば、関係が希薄になっていくのは避けられないが、これからどんどん日本が凋落していったら、必要に迫られて、家族が再生するかもしれない。

自分との人間関係

誰にとっても、いちばん近い人間は「自分」で、近すぎてそれ自体を自覚できないこともある。自己嫌悪、自己満足、あるいは自分に甘いとか自分に厳しいとかいうように、人はときに、自分を他者のように扱うことがある。自分を他者としてみるのは、なんらかのコンプレックスを抱える多くの人にとって、つらいことだ。

 

恋愛などでも、つき合うのは「わからない」からで、「わかったから」別れるということがじつは多いかもしれないが、家族でも、友人でも、異性でも、距離があったほうがよく見えるということはよくある。遠くから見るとよい景色でも、近くに行けばごみが落ちていたり、薄汚れていたりする。人間も同じで、ぱっと見ただけなら「きれいだな」と思えても、近づけば肌があれていたり、ニキビがあったり、産毛が生えていたり、シミやシワがあったりする。心も同様に、他人行儀ならお互いに礼儀正しく、落ち着いて、尊重しあえた関係が、いったん近づくと、それまで隠していたこともあからさまにして遠慮がなくなって、些細なことでも腹が立ち、ときに罵倒したりもする。

 

完璧な人間などいないし、むしろ程遠い人のほうが多いので、たいていの人が、どうにかよい面を見せて悪い面はごまかしながら生きている中で、近づいてじっくり見たところで新たに見えてくるものは、よいものよりもそうでないもののほうが多かったりする。それが他人なら、嫌いになって別れることもできるかもしれないが、それが自分だと嫌いでもどうにもならない。ひと握りの「自分大好き人間」以外は、自分をじっと見つめても、あまりよいことはないような気がする。

 

自己嫌悪に陥る人は、ほとんどが、他人にあまり興味がなく、自分のことばかり四六時中考えているような人だ。他人をほんとうに見ている人や、なにかに没頭している人は、自分をあまり見ないので、自己嫌悪には縁がない。いちばん近い距離にいる人間である自分ばかり見ていたら、よくないところばかり見えてきて、余計に嫌いになっていくのは当然だ。それは「他人と比べて自分がダメ」なのではなく、純粋に距離の問題で、近くで長く見過ぎているだけだから、視線を自分から他者へ、あるいは自分の外へ、向けていったほうがよいかもしれない。

 

他人のことを考え、他人のために働き、あるいはなんでもいいので没頭し、懸命に取り組むことで、自分に向けていたベクトルを外に向ければ、自分を見る時間が減って楽になることがある。自分を見つめすぎないことは、自分に寛容になることでもある。自分といちいち向き合うよりも、好きな人のことを考えたり、好きな映画を見たり、好きな音楽でも聴いているほうがずっといい。自分がどんなに醜くても、美しいものを美しいと感じることはできる。

宗教と人間関係

世界では、なんらかの宗教をそれなりに信じている人が相当数いるが、日本では宗教を信じているというと、どこか異質な人のように思われる。寺の坊主だろうが神主だろうが、割り切ったうえで型通りの儀式をしっかりやってもらえればそれで「職業」として認められるが、神や仏の存在を本気で信じているようだったら、逆に疑いの目を向けられるかもしれない。仏教やキリスト教や新興宗教の熱心な信者よりも、不信心者のほうがはるかに信用できる人も多いのは、そもそも神の存在を信じていないので、自分が信じていないものを信じている人は、どこか疑わしいからだ。信じるというのは100%でなくては信じたことにはならないのだから、「神」を半端に信じる人は、信者とはいえない単なるご都合主義者でしかない。

 

多くの神は寛容や愛を説いているが、事実として、宗教は有史以来、人間同士を結び付けるよりは断絶させてきた。宗教同士で反目し、殺し合い、宗教内でさえ争って分派が限りなくできていく。なにかを強く信じるということは、信じているもの以外を認めないことにもつながる。宗教を完全に信じている、ものすごく素晴らしい人がいたとしても、その人の心の芯が「神」という外部に依存している以上、同じ信心でつながらないかぎり、純粋に人間同士の関係をむすぶのはむずかしい。人間同士の話し合いが、どこかで「神」の壁にぶつかる。神が介在した人間関係は、それがどれほどよいものだとしても、人間同士の関係ということはできないが、神を信じるというかたちで仲介されないかぎり、あいまいな人間同士が深くつながるのは難しいのかもしれない。

 

宗教を信じるのが自然という環境で育った人もいれば、成長する中で困難にぶつかり、宗教に目覚める人もいる。絶対的に正しい「神」の方針に依存することで、自己選択する責任の重さや、人生の苦しみから逃れようとする。同じ「神」を信じている人たちとは、信じる思想が明文化されているので、他人の見えない心と違って安心だ。同じものを信じているもの同士の人間関係は、不確かな世界を生きる支えになる。「それぞれに、それぞれの正義がある」この世界では、どこにも属さなければ個人として孤立して、それぞれの正義を掲げる集団に袋叩きにされる。だから神を信じない人は、代わりに政治信条や国家の正当性を信じるようになる。

 

同じ価値観の人間が集まるのではなく、ある価値観に人が集まってくるのは、似ているようでまったく別ものだ。主に帰属意識だけを求めている、ご都合主義の信者たちこそが、教えをもっともないがしろにしている。聖典を文字通りに理解するならば、いいとこどりを試みる大多数の信者たちは、不信心者と同義かそれ以下だ。昨今は「原理主義」というのが悪い意味のように使われているが、宗教や思想とはそもそも「原理主義」であって、信心が減って世俗化するごとに他者に寛容になり、視野が広がり、人間同士の争いがなくなるのは皮肉なことだ。

 

 

 

男女の人間関係

男女の関係は、人間関係の中でもっとも悩ましいもののひとつかもしれない。とくにこのところの社会が要求する「男女平等」のいびつさで、いっそう難しくなっている。「男と女は同じだから」と言うのは女のほうが多いようだが、「制度上の話」を持ちだすと、「生身の人間」の相互理解は平行線になる。すべての人間には生まれながらに権利がある、という考え方が主流の現代だが、自分で手に入れたのではないものを、あたかも「当たり前」のように錯覚して自意識を底上げしてる人は、男女問わず醜悪だ。

 

「男女の友情があるかないか」というような話がよくあって、これも女のほうが「ある」という人が多いようだ。「友情」の定義が共通でないかぎり、この手の議論は無意味になる。もし「友情」が一時的で変化するもの、つまりいずれ「男と女の関係」にも変わりうるもの、という定義であれば、男女に友情は存在するだろう。しかし、男女の友情に「男と女の関係には永久にならない」という意味が含まれるのなら、それを一般化することはできない。恋愛対象となる性との友情が、同性のそれと違うのは、「いざというとき」に性行為ができるかどうか、ということもある。恋愛相談をしているときに「男女の友人同士」が一線を越えてしまう、というのはよくあることだが、これが男同士だったらきっと起こらないだろうから、やはり同性とは違う。もちろん、「肉体関係を友情にふくむ」という考え方もある。

 

恋人や伴侶に求めるものとして、「価値観の一致」がよくあげられる。別れる理由でも多いのが「価値観の不一致」だ。しかし、人間はみな、価値観が違っていて、男女はなおさら違っている。違うものを「同じ」にしようとすることが、悲劇のはじまりだ。「同じ」ものしか受け入れられないのは、その人が他人を「自分の延長」としか見ていないあらわれで、自分の延長が自分らしからぬ振る舞いをしたとき、気持ちが離れていくことがある。親密さは主に共通項の多さ、差異の少なさではかられて、異なる意見はときに、敵対と見なされる。人間はその多様性こそが素晴らしいはずなのに、孤独を埋めたいがために同化を求める人は救いがたい。

 

「なんでも自由」というような風潮の社会では、恋愛も個人の自由なので、一見、むかしの社会よりもよくなったかのようだが、「選べる」ということは、必ずしもよいことばかりとは限らない。多すぎる選択肢は迷いを生み、間違いを増やす。マークシートの選択肢が無限にあったら、答えを見つけるのは三択よりはるかに大変だ。はじめに正解を選択したとしても、多い選択肢が迷いを生んで選びなおし、間違えることも増える。ある人と付き合っても、「ほかにも選択肢がある」という状態が続くから、それが「正解」でも不安になる。現代社会の不安の大半は、じつは「自由」が原因かもしれない。

 

男女関係においては、「自由」だけでなく「安定」も求める人がほとんどだが、そもそも「自由」は「安定」しない。ご都合主義が通らないから、人は自己矛盾に苦しむ。「安定」がほしいなら「自由」は捨てなくてはいけないし、「自由」がほしいなら「安定」は捨てなくてはいけない。欲が深すぎるのか、頭が悪すぎるのか、なんでも手に入れようとするので、なにも手に入れられない人がいる。

 

友達の人間関係

とくに学生時代や、社会人になってふとしたとき、「友達がいない、うまくいかない」あるいは「友達はいるけど親友がいない」など、友達について悩み、苦しむことがある。「友達なんかいらない」と悟ったようなことを言う人も、じつは友達がいたほうがいいけど諦めるためにそう思いこもうとしていたりする。そのくらい、「友達は必要」という強迫観念に人は囚われているようにみえる。

 

そもそも、「友達」と一言にいっても、友達の概念は人によって違う。いっぽうが友達と思っていたのに、他方にとってはただの知り合いだった、というのはよくある話だ。人それぞれ「友達」の概念が異なる以上、「お互いが同じ感覚で、同じだけ友人と思い合っている関係」は幻想だ。時間が経てば心も変わる。変わらないものが友情だと仮に決めたら、友情というものは存在しないことになる。

 

友情を交換条件のように捉えている人も多く、それが大半かもしれない。完全に対等でないと友達とはいえない、というような意見も根強く、とくに下の立場だったり、能力的に劣る人は、友達にさえ引け目を感じたりする。しかし、人間はそれぞれ違うのだから、完全に対等などということもない。あるとすれば、「無関心」という意味での対等だ。関心が少しでもあれば、お互いの心のかけ具合にゆらぎが生じる。だから、「親友」や「友達」がときに絶交しても、好き嫌い、合う合わないに関係なく、「知り合い」や「職場の人」は一生の付き合いになっていたりする。別れを極度に恐れる人は、深さはともかく長く付き合いをしたい人がいたら、「業務上関係しないといけない知り合い」になるのが一番いいかもしれない。

 

長く関係することが友情という考え方があるが、ほんとうに「最後まで残った人が友達」なのか。であれば、人生の終わりまで、誰が友達なのか、わからないことになるし、裏切られたら、それまでの関係は嘘になってしまうのか。過去にずっと食べてきた食事が、今日からはもう食べられなくなったから無意味かといえば、そんなことはないように、友情を含めた人間関係も、残らなかったから無意味だったわけではないはずだ。青春の中でだけ輝いて、二度と会わなくなった人たちとの関係は、けっして嘘でも無意味でもない。

 

友達は、しょせんは自分の思いこみで、ひとつの概念にすぎないものだから、「友達がいないといけない」などと躍起になったり、友達がいないことで極度に落ち込む必要はない。そういう人は、友達がいないのではなく、他人を友達として認めるハードルが異様に高いだけだ。知り合いもふくめて広い意味で友情だと思えれば、「人類みな兄弟」のような博愛的な気分になれるかもしれないし、友達がほしいなら勝手に自分が友達だと思っていればいい。会ったことがない人でも、死んだ人でも、自分が友達だと思えば友達だ。

 

友達がいないことで悩む人は、友達をただ自分のさみしさを埋めるための道具としてしか見ていない。「友達としてあるべき姿」を他人に押し付けてコントロールしようとするのは、友情ではなく侮辱に近い。さみしさを埋めたい人はたくさんいる。だから、まずは相手に見返りを求めずえり好みもせず、自分のさみしさはわきに置いて、他人のさみしさを埋めることに懸命になっていれば、そのうちに友達らしきものができているかもしれない。

 

もっとも、人間関係を分類するための「友達」という概念は、はじめから消去してしまうのがいいかもしれない。「昔からよく知っている近所のAさん」「あまりよく知らないけどよく会う職場のBさん」「自分は尊敬しているけど話したことはないAさん」「よく遊ぶけど信用はできないBくん」など、安易に「友達」という言葉に頼らず、徹底して個別的に考えるのが、面倒なようでいちばん早く、かつ誠実な向き合い方かもしれない。