人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

幼稚な人間関係

年齢に関係なく、多くの人が、他人との関係でとても悩んでいる。そういった悩みを見たり聞いたり、あるいは自分で経験したりしていると、そのほとんどが「自分と他者を分離できていない」という、幼稚さが原因だったりする。

 

自分と他人は違う。そんなことは物心がついている人はたいていわかっている。自他の区別ができず、「自分のものも他人のものも自分のもの」なのは、赤ん坊のときだけだ。それが頭ではわかっているのに、大人になっても、ときにそうでないふるまいをする。自分がよかれと思ってやったことが、見解の相違で悪くとられてしまい、逆上する。好きだと言い合っていた人にふられてしまい、嫌がられているのに、「もう一度考え直してほしい」と無理に迫る。こんな人たちは、「自分のコントロールできること」と「他人がコントロールすること」を明確にわける必要がある。

 

自分が誰かに何をしようが、何を言おうが、それはその人の勝手で「自分のコントロールできること」だが、それに対して相手が何をしようが、何を言おうが、それは相手の勝手で「相手がコントロールすること」だ。それぞれに違う考えを持っている他人をコントロールしようとすることが、人間の成すことの中でもっとも醜悪な部類に入るのは、いろいろな政治体制が、自分たちの主義主張を内外の人間に押し付けようとしたとき、なにが起こってきたかを考えるだけでもじゅうぶんだ。自由を求める人間は、それが自分のものすごくやりたいことであっても、他者に強要されれば反発する。そのくらい、「誰かにコントロールされる」という感覚は、自尊心を徹底的に傷つける、侮辱的な行為だ。

 

国家に対しても、社会や会社、学校、あるいは家族に対しても、ときに、望んだわけでもないのに生まれてしまったこの世の中に対してさえも、人は自分がコントロールされていると感じて、だからなかなか気分が晴れない。その上、すでにいろいろなものにコントロールされている同じ被害者のはずの個人までもが、自分をコントロールしようとしてきたら、そんな関係がうまくいくはずがない。大人ぶっているこの世の大半は、非常に幼稚な関係であやうく成り立っている。

 

自分が幼稚さの被害者と感じている人も、じつは、他人をコントロールしようとしていることがよくある。心のなかでは、自分が変わるより相手に変わってほしいと願っている。自分の行動で解決するより「こんなことで怒らないでほしい」「もっとまじめに仕事をしてほしい」「無視しないでほしい」「やさしくしてほしい」など、他人を自分の都合にあてはめようとする気持ちでいっぱいだ。

 

しかし、とくに社会に出ると、他者をコントロールするような人間関係のなかから、完全に自由になるのはむずかしい。コントロールせず、されず、というやり方で、社会を生き抜いていくには、孤独を覚悟しなくてはいけない。

職場の人間関係2

とても嫌いな上司や、同僚や、部下がいて、それで仕事を辞めたくなったり、精神を病むほど悩んでいる人は多い。そういうときに考えなくてはいけないのは、それは本当に辞めれば解決する問題なのかどうか。自分が社員を全員選べる立場でないかぎり、自分がいっしょに働く人を、自分で選ぶことはできない。仮にいま、とてもいい人たちと働いていても、新しい人も入ってくるし、永久にそれが続くことはない。そもそも人間は変わる。仲がよかった人でさえ、月日が経てば、そうでなくなることはよくあることだ。

 

犯罪的なことについてはべつだが、単に馬があわないとか、自分の能力が足りないことが根本にあるとか、そういう理由であれば、どこに行っても同じことになる。原因が自分の中にあるので、どこまで逃げてもついてくる。

 

とくに最近は、ネットの発達でいろいろなことが簡単にできるようになったせいか、自己評価のやけに高い人が増えたように思える。社会に出てすぐに、自分は大きな責任や仕事を任せられる価値があると思い、そのように評価されないと「正当に評価されていない」と絶望する若者たちがいる。学生の最年長になってから、社会の最底辺に入っていくのだから、社会に出るにあたり、自分の立ち位置を正確に測りなおすことは重要だ。ネット社会は、グローバルな視野を身につける以上に、井の中の蛙を量産している。自分が簡単にできることは、他人も簡単にでき、簡単にできることでは他人と差別化できないという、簡単な論理を理解したほうがいい。ネット社会だからこそ、ネット以外の経験のほうが役に立つのは皮肉なことだ。

 

職場の評価に悩むのに年齢は関係ない。年を重ねても、いつまで経っても、他人の評価基準で生きているのは、情けないものだ。しかし、「正当な評価」とはなんだろうか。そのようなことを言う人は、「正当な評価をしてほしい」ではなく、「自分を評価してほしい」と正確にいう必要がある。けっきょく、自分が正しい、他人が間違っている、と言っているにすぎない。職場で下された評価はいつでも正当なのだと、謙虚になったほうがいいのは、そこは自分が選んだ職場であって、職場にいる上司や同僚や部下たちのレベルは、自分のレベルを映す鏡でもあるからだ。

 

口汚く「クソみたいな職場だ」というときに、その人は自分もクソの一部だということを忘れがちだ。上司に手柄を取られた、とか、ひいきがある、とか、「この上司でなければ」ということがあるが、その程度の上司の下でしか働けず、上司のさじ加減で変わる程度の力なのだから、気分を変えるために職場を変えるのでなければ、黙って懸命に働いたほうがよいかもしれない。

職場の人間関係

仕事における悩みの第一位は、だいたいが「人間関係」だという。職場にいくのが嫌だと感じたり、辞めたいと思ったり、じっさいに辞めたりする場合、職場で常時接する人間が決定的に肌に合わなかったりする。それが直属の上司だったり、自分の責任でどうにかしないといけない使えない部下だったり、陰口をたたいたり足を引っ張る同僚だったりする。

 

しかし、職場というのは、義務教育の場などと違って、友達を作る楽しい場、ではないので、本来、大事なのは人間関係ではなくて、業務の成果だと思う。人間関係に悩んでいる多くの人の原因が、じつは人との関係以前に、単純に業務能力の問題から派生しているような気がする。部下は仕事ができないこと、上司は部下をうまく指導できないこと、あるいは職場のメンバーが職場の環境をよくしようとしていないそのこと自体が、人間関係の悪化につながっている。人間関係が最大の悩みであるなら、人間関係を悪化させないことは、即、業務能力の問題になる。

 

多くの人は、立場的に誰かの部下だから、たとえば、ミスをいやらしく指摘する上司、もしくは怒鳴り散らす上司に悩んでいる、という人がいたとして、部下の側が仕事のできる人であれば、そのようなことは起こらない。できる人は使えない上司など軽く流すか、邪魔なら潰してしまうからだ。派遣や契約の立場だから強くいえない、というような話もあるが、そうであれば、そもそも入口のところでその立場を選んだ、あるいはそれしか選べなかったことが原因でもある。世の中には無数の職種と職場があるのだから、ほんとうに理不尽で精神が参ってしまうくらいなら、仕事を辞めてしまえばよいだけの話なのに、どんな仕事をしてでも食べていくという覚悟もないので、理不尽に大して反抗も逃走もできず、ただ神経をすり減らし、またミスを重ねていく。中間管理職であれば、上司の意向とバランスをとった結果、目をかけているはずの部下からも不評だったりしてさらに悩む。

 

職場で人間関係に悩む人には他責の人が多いような気がする。自分の仕事の至らなさや態度や言動を棚に上げて、他人のせいにするだけで、本音では自分は悪くないと思っていたりする。また、その人自身が、他人の悩みの原因になってしまうような人間だったりもする。周囲の人間が、自分のことで悩みを抱えているなどとは考えない。怒れば怒ったで落ち込むが、親身になればなったで、うざいとかありがた迷惑と感じたりする。仕事を与えれば大変だといい、与えなければ見限られたと感じる。部下が使えなければイライラして、部下から指摘を受ければムカムカする。

 

職場の人間など、本来は、人も間関係のなかでもっとも流動的かつ表面的で、自分次第でコントロールできるもののひとつなのだから、これ以上悩まないためには、他人を変えようとするのではなく自分が変わること、それ以上に、人間を扱う能力もふくめて業務能力を向上させる努力を重ねることで、職場の人間関係は無視することができる。仕事ができない人は、それは業務能力の問題で、人間関係とは別の話なのだと、わりきったほうがいいかもしれない。多くの人にとって、仕事は人生の大半の時間を占めるが、それでもすべてではない。仕事で否定されたからといって、すべてがなくなるわけではないし、仕事ができないことや、よい会社に入れないことで悩む人は、肯定されるものなどひとつでもあれば儲けもの、くらいに思っておいたほうがいい。

匿名の人間関係

このところのインターネットの発達で、匿名だけで成り立つ人間関係が、人によっては大きな比重を占めることがある。現実の社会でも、社会的地位を偽ることはできるし外見も多少は偽れるとしても、ネット社会ではそれと比較にならないくらい、嘘かほんとうかわからないことがあふれている。嘘かほんとうかを判断する力がないと、ネット社会で健全に生き抜くことはむずかしい。 ネットなど見ないほうがよい。

 

匿名性が暴力性を際立たせることがあって、ネットの問題点としてあげられることが多い。嘘を見抜けない人を標的にした犯罪の温床にもなりやすいかもしれない。しかしそれでも匿名ということに魅力があるから、怖いもの見たさの人が集まり、発言をするのは、いかにふだんの自分自身と、ほんとうに思っていることが乖離している人が多く、現実社会で隠されていることが多いということになる。

 

人間は外見ではなく内面だ、すれば、匿名の関係だけで信頼できるような人ができたらそれが一番なのかもしれないが、いざ現実に会ったりしてみると、想像と違っていておしまい、というような話もよくあることだ。匿名の関係では、自分の都合のよいように相手の欠けた情報を埋められる。じっさいは、匿名の関係を好む人たちは、現実の満足度が低い人が多いはずなので、都合のよい想像が機能することは少ないかもしれない。

 

日常生活で身近な人間には吐露できない言葉を吐き出し合う場所としてのみ、匿名の場所が使われるのだとしたら、それは平和的で、よいことかもしれない。お互いに匿名のままで分かり合えて、支え合える相手がいたら、きっと生きる心の支えになるだろう。 しかし、そこまでの関係ができたら、いずれ、相手がどんな人か知りたくなる。知ろうとしなければ、匿名の関係が疎遠になって消えるのもはやい。

 

匿名はしょせん匿名だから成り立つ心地よさなので、そこを踏み越えれば、ふつうの人間関係になる。

書物との人間関係

世の中には、ほんとうにたくさんの本がある。それらの本の多くは、すでに死んでしまった人たちによって書かれていて、時代を経ても残っている素晴らしい本がある。本を読むということは、それらの著者の、もっとも深いところから出てきた文章を自分のなかにとりこみ、あたかもそれらの人たちの思考を追体験するような気分にさせられる。

 

現実に、同時代的に、自分のまわりにいる人たちが、自分と似たような考えをもっていたり、歴史上重要な人物や、人類史上最高の知性と、同レベルで物事を考えているという幸運に恵まれることは、きわめてまれだ。だから、それなりに知性に恵まれた人の大半は、どこか世界に違和感をおぼえながら暮らすことになる。

 

そんなとき、書物というのは、心の友になりうるものだ。書物は余計なことはいわないし、二度と変化をしないという意味で信頼でき、安定している。自分のまわりに理解者がいなくても、人類の歩みの中では、たとえ国や時代が違っても、共感できる存在がいたということは、現実の友人がだれもいないという場合にはとくに、支えになることかもしれない。

 

書物はそれがよい書物であればあるほど、現実の人間が物足りなく感じる友人だが、いっぽうで書物のほうも決して自分のほうには踏み込んでこないので、完璧な友人ではないのは確かだ。依存するような関係ではなく、再読しないまま長い時間を経ても、いつ戻っても同じままでいてくれるような、なつかしい関係として何冊かの気に入った書物を持っておくことは、環境に左右されずに自分の水準を保ち、高めるためにも、あったほうがよいかもしれない。

動植物との人間関係

ペットは家族、といってみたりするように、動物を、ときには植物を擬人化して、人間と同列に、ときに人間以上に扱うことがある。

 

人間だけが特別だ、という考えはひとつの考えで、動物も植物もすべて生き物だから同列だ、という考えもある。ただし、動物を擬人化している人たちのほとんどは、ある特定の動物や、特定の動物の中で自分が飼っているものだけに愛着をおぼえていて、そのほかの動植物を食べたりすることには、とくに問題がないようだ。

 

だから、ペットやある種の動物だけを特別視する人たちは、差別主義者でもあると思う。そして、ペットは家族、であれば、家族はペット、も同様なので、人間との関係性が一方的な支配関係であることを望んでいることになる。愛玩動物は、むこうには選択肢はない一方的な関係だから、人間たちが自分のさみしさを紛らすために、人間の都合で飼っているということは、忘れないほうがよいだろう。首に鎖をつけたり、家に閉じ込めておくのが愛情なら、監禁も愛情になる。ペットは家族、という人とは、深く人間関係を築ける気がしない。

 

気持ちが病んでくると人間よりも物言わぬ、従順で、弱い動物を友とするようになり、動物でさえ思い通りにいかないと、植物を友とするようになるともいう。植物はただ生きているだけで、文句もいわないし、邪魔くさいこともしない。人間の代わりではなく、ほんとうに人間を捨てて動物や植物を友とするならば、それはきっと、人間社会で生きるよりも、ずっと心が慰められるかもしれないし、動物や植物はなにも理解してくれないので、ただ空しくなるかもしれない。

 

 

物との人間関係

物との関係を人間関係というのもおかしな話だが、物質的なものを擬人化して、あたかも人間的な、魂を持ったものであるかのように、接することがある。考えてみれば、人間も物質の集合には違いないのだから、人間との関係も、広い意味では物との関係といえるかもしれない。物を大事にする人は、人も大事にすることが多いような気がする。物を物としか扱わない人は、人を物として扱う傾向があるようだ。

 

物は、その性質上、絶対普遍ではないけれども、ものによっては、人間よりも信頼できることがある。人間が暗算をするより計算機のほうが信用できるし、人間が記憶するよりもパソコンのデータを信用するだろう。新幹線の運行をすべて人の手でやったら途方もない労力だろうが、自動制御できる部分が多いので、あれだけの正確さを持って運行できて信頼される。よく、「人間は物じゃない」とか、「ロボットじゃない」というようなことを、人間を肯定する意味で使う人がいるが、物やロボットのほうがはるかにマシなことのほうが多いのではないだろうか。

 

職場に友人を求めないとして、いっしょに働くなら、ミスもするし体調も崩すし気分屋な同僚よりも、美しく完璧で人当りのよいアンドロイドのほうがよいと思う。すでに多くの仕事を機械がやっているのはそのためで、機械は待遇への文句とか、機械同士のけんかや足の引っ張り合いをしない。物同士は規律が保たれる。これは人間も同じで、一見、冷血で無感動でロボットみたいな人たちのほうが、じつは他者を尊重してやさしさをもっていることがある。

 

バイクに乗ってひとり旅をしていると、バイクに話しかけることがある。自分のことばを受け止めるだけで、なにもいわず、自分の役割だけはたんたんとこなす。よい友人の定義をあげたときに、人間の友人よりバイクのほうが、きっと友人として上回る。物に魂を想像することは、物としての人間への想像力にもつながるが、それには人間は物であると理解していないといけない。人間は物であると理解したときにはじめて、ほんとうの意味での想像力が働く。