人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

一対一の人間関係

他者との人間関係の最小単位は、ひとりとひとり、一対一で、一対一とそれ以上は、まったく違うコミュニケーションになる。

相手がひとりなら、少なくともその場では、その人のことだけを考えていればよい。しかし、そこにもうひとり加わると、それは集団になって、常に「第三者」の目が生じることになる。「第三者」がいることで、その発言は意識的にしろ、無意識的にしろ、常に「第三者」に配慮したものになる。集団の中のだれかひとりに向けられた発言が、集団のすべてに共有されて、波紋のように広がって新たなコミュニケーションを生む。

集団のコミュニケーションは、SNSにも通ずるかもしれない。不特定でも、特定されていても、多数に対して投げかけられる言葉は、ときに対象を失うことになる。さらに、配慮がしきれなかったり、対象が定まらない発言を繰り返せば、それは「空気が読めない」と言われたりする。だから、集団になると黙り込む人もいる。みんなでわいわい騒いで楽しげな会合でも、中身はなにもなかった、ということもよくある。

いっぽうで、一対一の場合は、相手はその人しかいないので、濃く深いコミュニケーションになりやすいいっぽう、逃げ場がない。集団ならば、だれかが助け舟を出してくれたり、「第三者」の目によって抑制されることが、ふたりきりだとあからさまになる。集団なら分母でごまかせることが、ごまかせなくなるので、「濃い」コミュニケーションに自信のない人は、集団の「薄さ」を好むことも多い。「薄さ」が「濃さ」に常に劣るとは限らない。

もちろん、集団の中にも一対一の関係が生じることがある。そして、ある人との、一対一と集団のコミュニケーションを繰り返していく中で、つながりの整合性が問われていくことになる。たとえば、AさんとBさんが一対一だとよくしゃべるのに、そこにBさんとより仲の良いCさんが加わるとAさんにとっては居心地が悪くなる、Bさんに一対一で話したことがすべてCさんに伝わる、とすると、それは当然、一対一の関係にも影響していく。

だから、職場やクラスのように集団が中心の場合は、一対一でもあくまで集団を相手にしているときと同じようにふるまうのは、ひとつの処世術だ。そこで話されたことはすべて、母集団に共有されてもよい、くらいの気持ちで話すほうが、一貫性は保たれる。逆に、強く個別の関係を結びたい相手がいるならば、それはなるべく集団から切り離したほうがよいかもしれない。

そのもっともたるものが、付き合ったり結婚したりすることで、「契約的に」ふたりきりの関係を作ることだ。しかし、いったん「契約的に」関係を作ってしまえばひと安心、というのはひと昔前の話で、契約の履行が必ずしも重視されない時代には、お互いあるいはどちらかが「契約的に」忠実な人間でないならば、常に緊張感をもって関係性を築いていくしかない。

関わる人間の選択肢が見かけ上増えた社会においては、集団の「薄さ」「軽さ」が、一対一の「濃さ」「重さ」に勝りつつあり、ときに一対一にも「薄さ」「軽さ」が求められている。だから、ふたりきりという関係性をあきらめて、集団か、ひとりきりか、という人も増えているようだ。ひとりの「濃さ」を求めれば、人間関係は「薄さ」をおびる。

逆にいえば、社交的でいかにも成功者のような「濃い」集団にいる人間が、必ずしもその人自身の「濃さ」を持っているわけではない。だから、意外とふたりきりになると、そういう人はつまらない人間だったりすることもある。集団で生きる人であるが、集団がなくなれば自分もなくなる。