人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

自分との人間関係

誰にとっても、いちばん近い人間は「自分」で、近すぎてそれ自体を自覚できないこともある。自己嫌悪、自己満足、あるいは自分に甘いとか自分に厳しいとかいうように、人はときに、自分を他者のように扱うことがある。自分を他者としてみるのは、なんらかのコンプレックスを抱える多くの人にとって、つらいことだ。

 

恋愛などでも、つき合うのは「わからない」からで、「わかったから」別れるということがじつは多いかもしれないが、家族でも、友人でも、異性でも、距離があったほうがよく見えるということはよくある。遠くから見るとよい景色でも、近くに行けばごみが落ちていたり、薄汚れていたりする。人間も同じで、ぱっと見ただけなら「きれいだな」と思えても、近づけば肌があれていたり、ニキビがあったり、産毛が生えていたり、シミやシワがあったりする。心も同様に、他人行儀ならお互いに礼儀正しく、落ち着いて、尊重しあえた関係が、いったん近づくと、それまで隠していたこともあからさまにして遠慮がなくなって、些細なことでも腹が立ち、ときに罵倒したりもする。

 

完璧な人間などいないし、むしろ程遠い人のほうが多いので、たいていの人が、どうにかよい面を見せて悪い面はごまかしながら生きている中で、近づいてじっくり見たところで新たに見えてくるものは、よいものよりもそうでないもののほうが多かったりする。それが他人なら、嫌いになって別れることもできるかもしれないが、それが自分だと嫌いでもどうにもならない。ひと握りの「自分大好き人間」以外は、自分をじっと見つめても、あまりよいことはないような気がする。

 

自己嫌悪に陥る人は、ほとんどが、他人にあまり興味がなく、自分のことばかり四六時中考えているような人だ。他人をほんとうに見ている人や、なにかに没頭している人は、自分をあまり見ないので、自己嫌悪には縁がない。いちばん近い距離にいる人間である自分ばかり見ていたら、よくないところばかり見えてきて、余計に嫌いになっていくのは当然だ。それは「他人と比べて自分がダメ」なのではなく、純粋に距離の問題で、近くで長く見過ぎているだけだから、視線を自分から他者へ、あるいは自分の外へ、向けていったほうがよいかもしれない。

 

他人のことを考え、他人のために働き、あるいはなんでもいいので没頭し、懸命に取り組むことで、自分に向けていたベクトルを外に向ければ、自分を見る時間が減って楽になることがある。自分を見つめすぎないことは、自分に寛容になることでもある。自分といちいち向き合うよりも、好きな人のことを考えたり、好きな映画を見たり、好きな音楽でも聴いているほうがずっといい。自分がどんなに醜くても、美しいものを美しいと感じることはできる。