人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

操作する人間関係

人間関係に悩む人の中には、人びとの中でどうにかよい立場を得ようと、いろいろな策を弄する人がいる。もしかしたら多かれ少なかれ、ほとんどの人が無意識的にしろそうかもしれない。仲良くなっておいたほうが得な、人望の厚い実力者とは仲良くして、その人が批判する人がいれば同調したりする。

自分のライバルや、自分に批判的な人間がいるときは、相手に味方を増やされては困るので、周囲にそれとなく自己弁護的な話とともにライバルの批判を盛り込んで、自分の味方を増やそうとすることもある。それに同調する人もいるし、しない人もいる。

あるいはそのような動きをすること自体を軽蔑的に見る人もいる。そもそも、人間関係というものは、思い通りに操作できるようなものだろうか。ある程度はできるかもしれない。しかし、うまく立ち回るだけで信頼されると思ったら、それは間違っているかもしれないし、他人を舐めすぎているかもしれない。

人間とはそんな簡単なものではないし、力関係によって表向きはどうであれ、人間関係を操作しようという試みは、見抜く人は見抜くはずだ。そして「自分を操作しようとしている」と感じることは、相手に対するもっとも大きな不信につながる。

つい味方がほしくて、愚痴るだけではなく相手の同意をも求めがちなことがあるが、自分の意見と相手の立場をきちんとわけて考えないと、容易に心の距離を置かれることになる。自分の人間関係と、他人のそれは同一ではなく、相手には相手の人間関係があるからだ。

自分の嫌いな人や苦手な人を、他人も必ずしもそうだとは限らないし、相性や立場の違いで評価は大きく変わったりする。あらゆる強権的な政治体制がそうであるように、自分の価値観と相容れないものを表向きにしろ強要されるということは、いずれ爆発する大きな反発を内在することになる。

人間関係、とはいうものの、それは人間関係自体を思い通りに操作することではなくて、結局、自分自身の一貫した姿勢があり、その姿勢が認められることで結果として良好な人間関係が成り立つのではないか。

もし仮に、四面楚歌のような厳しい状況があるなら、それは単に周りが悪いとか誰かの仕業という以前に、自分自身の他者に対する姿勢に問題がなかったか、他者を操作しようとしていなかったか、あるいはそれぞれの他者に誠実に向き合っていたか、よく考えてみたほうがよいかもしれない。

人間関係は非常に大事で、日常に大きく影響することだからこそ、操作できるなどという傲慢な考えは持たずに、謙虚に自らの姿勢について振り返るようにしたい。