人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

外国人と人間関係

日本にも、特に都市部には外国人の姿が増えた。旅行者だけでなく、ある駅を降りると、特定の国の人たちばかりが目につくようなこともある。見かけることは多くても、人間関係という意味では、ふつうに暮らす日本人にとってはまだまだ馴染みが薄いかもしれない。

見た目や言葉からして、自分と明らかに異質なものと接するときには、その人の考え方によっては、どうしても一般的な日本人と同じような距離では接することができないこともある。それを差別だという人もいるが、男女に違いがあるように、人種にも明らかに違いがある。

アフリカの黒人が日本人を見たって、自分たちと同じ種類の人間だとは思わないのだが、ジャッキー・チェンの真似をする黒人のふるまいが差別として糾弾された例は聞かない。だれだって、見慣れないものを見れば身構える。話しの種にもしたくなる。大抵はそれだけの話ではないか。

外国人とかかわるとき、なんでこんなに馬鹿なんだろうとか、理解に苦しむとか、なにを考えてるかわからないとか、そんな風に思うこともある。しかし、日本人が同じことをしたら許せないかもしれないことが、外国人だと許せてしまうことがあるのは、はじめから「違う人間」だという意識が強いからだ。

そう考えると、本来は日本人同士も完全に違う他人なのだが、日本人と接するときには、自分と他人のあいだには「同じ日本人なのだから」という甘えがそこにはあるようだ。甘えは過剰な期待だから、失望につながりやすい。たとえば、価値観の近いもの同士で結婚したはずが、似通った価値観だからこそ、些細な違いがゆるせなくなっていくことがある。はじめから「違う」と思えば諦めもつく。諦めたところから、他人との本当の関係性がはじまる。

そういう意味では、自分とまったく文化や言葉や外見の違う外国人とかかわることは、よい意味で、他人に対する都合のよい期待を捨て去ることになるかもしれない。逆に、わからず屋の日本人に遭遇したときには、その人を「外国人枠」で扱うと、腑に落ちることもあるかもしれない。

そして、最終的には、「他人はすべて自分とは違うもの」というところに到達することになる。外国人は「あからさま」なだけで、あらゆる他人は自分とは違う。見た目や言葉が近いからといって、それは見せかけの距離に過ぎないのだが、どんな見た目や言葉を「美しい」と思うか、という審美眼は、また別の話である。

なにを美しいと思い、なにを醜いと思うかについては、個人の心の問題なので、「そう思う」ことについて、他人がとやかくいうことではない。だれもが、どんな価値観でも受け入れて、なんでもかんでもよい、と思わなくてはいけない、という空気は、感性のごまかしを強要することは、「間違いなく正しく思える」人道主義的全体主義がもたらす、最大の脅威に違いない。