人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

自信が持てない人

世の中には、「自分に自信が持てない」という人がたくさんいて、見た目が悪いとか、勉強がうまくいかないとか、仕事ができないとか、さまざまな理由で悩み、「どうやったら自信が持てるのか」と思い「自信があれば一歩踏み出せるのに」と嘆く。このような人たちは、自信というものをなにか、「自分を万能と感じて、何事も絶対できると思える」状態のように思い、求めているが、人間が70億いて常に変わっていく先の見えない世の中で、そのような意味での「絶対の自信」を持てるとしたら、それは「井の中の蛙」で、ただの「自信過剰」「過信」に過ぎないか、自分が確実にできるレベルの簡単なことしかやっていないに過ぎない。

 

人は他人にはなれないので、自分に自信が持てないと嘆く人は、他人は自信が満ち溢れているように見え、自分自身の不安な状態がおかしなもので、脱却しなければならないものだと強迫観念のように感じるようだが、まずは、不安な状態というのはある程度、当たり前のものであり、むしろなんの不安もない状態になったら、なにかがおかしいと思ったほうがよいかもしれない。学業でも、スポーツでも、年代や地域や種目で細分化されたカテゴリーの一部でトップクラスになるのはさほど難しいことではないが、どこまで行っても上には上がいて、仮に世界一になったとしても、それを脅かす他者がどんどん現れる。一流に近づけば近づくほど、謙虚な人の割合が多いのは、一流にならないとわからない高みや広さを知っているからだ。そのような人たちは時に自信満々に見えることがあるが、それは「自分のできること、できないこと」をよく知っており、「自分のできること」については確信を持てるだけのことを積み上げているからだ。

 

自信というのは「なんでもできること」ではなく、まずは「自分にできること、できないこと」を正確に把握し、自分にできることについて「できる」と思える気持ちであり、また、それができるようになるまで積み上げてきた努力や経験そのものについて、「これだけはやった」と思える気持ちではないだろうか。だから、とくに若い人が自信を持てないことは当然であり、むしろ、これまで大したこともしてきていないのに、日本だけでも1億以上の人間がいる中で、安易に自信を持とうとすることは傲慢だ。言い換えれば「なにも成し遂げていないし、積み上げてもいない、挑戦もしていないけど、それをやったときと同じ心の状態が欲しい」と言っているようなもので、どうしようもなく甘く、自分本位な考えだ。

 

恋愛で告白をしたいけど自信がない、とか、仕事で緊張からミスばかりするので自信がほしい、などという人は、自信のことを勘違いしている。自信がないからなにかができない、のではなく、なにかをすることそのもの、一歩踏み出し、あるいは踏みとどまることで、少しずつ自信がついていく。自信が先にあるのではなく、行動の先に自信があるということだ。なにかをやってみても、自信を喪失するような結果が出ることもあるだろうし、リスクに尻込みすることもあるだろうが、それでも踏み出し続けることができれば、少なくとも「自分は行動した」ということについては自信を持てる日が来るかもしれないし、結局「自分は自分の思うとおりに生きられた」と後悔なく思えることが、自信ということなのかもしれない。

 

世界一になるのは誰にもできることではないが、少なくとも「なにかをしてみる」ことは誰にでもできることだ。若いうちからいきなり自信を得ようという人は、勉強せずに頭がよくなりたいとか、働かずにお金がほしいという人と同じ、怠惰で欲の深い人のようだ。自信を得るということには、安易に自信を欲しがる人たちが思う以上に、決断や覚悟、努力や継続が不可欠なもので、じつに多くの人が自信を「安く見積もり過ぎ」ているということだ。