人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

男女の人間関係

男女の関係は、人間関係の中でもっとも悩ましいもののひとつかもしれない。とくにこのところの社会が要求する「男女平等」のいびつさで、いっそう難しくなっている。「男と女は同じだから」と言うのは女のほうが多いようだが、「制度上の話」を持ちだすと、「生身の人間」の相互理解は平行線になる。すべての人間には生まれながらに権利がある、という考え方が主流の現代だが、自分で手に入れたのではないものを、あたかも「当たり前」のように錯覚して自意識を底上げしてる人は、男女問わず醜悪だ。

 

「男女の友情があるかないか」というような話がよくあって、これも女のほうが「ある」という人が多いようだ。「友情」の定義が共通でないかぎり、この手の議論は無意味になる。もし「友情」が一時的で変化するもの、つまりいずれ「男と女の関係」にも変わりうるもの、という定義であれば、男女に友情は存在するだろう。しかし、男女の友情に「男と女の関係には永久にならない」という意味が含まれるのなら、それを一般化することはできない。恋愛対象となる性との友情が、同性のそれと違うのは、「いざというとき」に性行為ができるかどうか、ということもある。恋愛相談をしているときに「男女の友人同士」が一線を越えてしまう、というのはよくあることだが、これが男同士だったらきっと起こらないだろうから、やはり同性とは違う。もちろん、「肉体関係を友情にふくむ」という考え方もある。

 

恋人や伴侶に求めるものとして、「価値観の一致」がよくあげられる。別れる理由でも多いのが「価値観の不一致」だ。しかし、人間はみな、価値観が違っていて、男女はなおさら違っている。違うものを「同じ」にしようとすることが、悲劇のはじまりだ。「同じ」ものしか受け入れられないのは、その人が他人を「自分の延長」としか見ていないあらわれで、自分の延長が自分らしからぬ振る舞いをしたとき、気持ちが離れていくことがある。親密さは主に共通項の多さ、差異の少なさではかられて、異なる意見はときに、敵対と見なされる。人間はその多様性こそが素晴らしいはずなのに、孤独を埋めたいがために同化を求める人は救いがたい。

 

「なんでも自由」というような風潮の社会では、恋愛も個人の自由なので、一見、むかしの社会よりもよくなったかのようだが、「選べる」ということは、必ずしもよいことばかりとは限らない。多すぎる選択肢は迷いを生み、間違いを増やす。マークシートの選択肢が無限にあったら、答えを見つけるのは三択よりはるかに大変だ。はじめに正解を選択したとしても、多い選択肢が迷いを生んで選びなおし、間違えることも増える。ある人と付き合っても、「ほかにも選択肢がある」という状態が続くから、それが「正解」でも不安になる。現代社会の不安の大半は、じつは「自由」が原因かもしれない。

 

男女関係においては、「自由」だけでなく「安定」も求める人がほとんどだが、そもそも「自由」は「安定」しない。ご都合主義が通らないから、人は自己矛盾に苦しむ。「安定」がほしいなら「自由」は捨てなくてはいけないし、「自由」がほしいなら「安定」は捨てなくてはいけない。欲が深すぎるのか、頭が悪すぎるのか、なんでも手に入れようとするので、なにも手に入れられない人がいる。