人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

宗教と人間関係

世界では、なんらかの宗教をそれなりに信じている人が相当数いるが、日本では宗教を信じているというと、どこか異質な人のように思われる。寺の坊主だろうが神主だろうが、割り切ったうえで型通りの儀式をしっかりやってもらえればそれで「職業」として認められるが、神や仏の存在を本気で信じているようだったら、逆に疑いの目を向けられるかもしれない。仏教やキリスト教や新興宗教の熱心な信者よりも、不信心者のほうがはるかに信用できる人も多いのは、そもそも神の存在を信じていないので、自分が信じていないものを信じている人は、どこか疑わしいからだ。信じるというのは100%でなくては信じたことにはならないのだから、「神」を半端に信じる人は、信者とはいえない単なるご都合主義者でしかない。

 

多くの神は寛容や愛を説いているが、事実として、宗教は有史以来、人間同士を結び付けるよりは断絶させてきた。宗教同士で反目し、殺し合い、宗教内でさえ争って分派が限りなくできていく。なにかを強く信じるということは、信じているもの以外を認めないことにもつながる。宗教を完全に信じている、ものすごく素晴らしい人がいたとしても、その人の心の芯が「神」という外部に依存している以上、同じ信心でつながらないかぎり、純粋に人間同士の関係をむすぶのはむずかしい。人間同士の話し合いが、どこかで「神」の壁にぶつかる。神が介在した人間関係は、それがどれほどよいものだとしても、人間同士の関係ということはできないが、神を信じるというかたちで仲介されないかぎり、あいまいな人間同士が深くつながるのは難しいのかもしれない。

 

宗教を信じるのが自然という環境で育った人もいれば、成長する中で困難にぶつかり、宗教に目覚める人もいる。絶対的に正しい「神」の方針に依存することで、自己選択する責任の重さや、人生の苦しみから逃れようとする。同じ「神」を信じている人たちとは、信じる思想が明文化されているので、他人の見えない心と違って安心だ。同じものを信じているもの同士の人間関係は、不確かな世界を生きる支えになる。「それぞれに、それぞれの正義がある」この世界では、どこにも属さなければ個人として孤立して、それぞれの正義を掲げる集団に袋叩きにされる。だから神を信じない人は、代わりに政治信条や国家の正当性を信じるようになる。

 

同じ価値観の人間が集まるのではなく、ある価値観に人が集まってくるのは、似ているようでまったく別ものだ。主に帰属意識だけを求めている、ご都合主義の信者たちこそが、教えをもっともないがしろにしている。聖典を文字通りに理解するならば、いいとこどりを試みる大多数の信者たちは、不信心者と同義かそれ以下だ。昨今は「原理主義」というのが悪い意味のように使われているが、宗教や思想とはそもそも「原理主義」であって、信心が減って世俗化するごとに他者に寛容になり、視野が広がり、人間同士の争いがなくなるのは皮肉なことだ。