人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

不倫と人間関係

このところ著名人の不倫が立て続けに報道されていて、人によって擁護したりされたり、徹底的に叩いたり叩かれたり、さまざまだ。それは著名人に限ったことではなくて、一般にも不倫はかつてよりはるかに普及しているようなのは、スマホ等で個人がだれにも伴侶にすら知られることなく、個人的な人間関係を手軽にもてるようになったことで、「ばれなければいい」という、いわば倫理観の境界線上にあったような事柄のハードルが、低くなってきているのかもしれない。個人の、匿名に近い、一対一の関係になってしまえば、そこには既婚かどうかという「世間体」にたいして意味がなくなることになる。だから不倫をしてもその行為自体の持つ意味も同じく軽くなる、あるいはお互い愛しあっていればいい、とでもいうように不倫を許容するような言説については、首を傾げることもある。不倫の本質はお互いの気持ちや経緯ではなくて「重大な裏切り」が許容されるかどうか、だからだ。

 

不倫も恋愛、のようなことを言う人たちがいるが、不倫は結婚という「人生にかかわる重大な約束をやぶり裏切ること」または「他人の約束を破壊すること」なので、英雄色を好む、という話とは本質的に異なる。もし、夫婦が互いに了解のうえで行われていることならば、それは不倫とはいえないかもしれないが、ふつうはこっそり「裏切り」で行われることだ。巷には、不倫と一夫多妻制などを一緒くたにしてしまう人がよくいるが、一夫多妻制でも結婚外の異性に手を出せばそれは不倫であって、イスラム教徒で一夫多妻でも不倫は裏切りで罪なので、それは妻が何人いても同じことだ。もちろん生きていく中ではだれかを裏切る人間も当然いるだろうが、裏切りというのは他人からの強制ではなく、自分で決めることなので、いざことが起こったとき、「そのような人間は裏切りもので、クズだ」ということにしない限りは、結婚というものの価値が相対的に低下するし、じっさい、そうなっている。ひどい裏切りをしてもなお、擁護されてしまうようでは、それなりに意気込んで裏切った側にも張り合いのないことかもしれない。かつて「文学」になったことが、いまは「ふーん」で終わってしまう。

 

先進社会では「なんでも許容する」のがトレンドになっていて、ゲイでもバイでも不倫でも離婚でも、どんな宗教でも民族でも肌の色でも、なんでもよいというのが建前だが、「なんにでも同じように同じだけの価値がある」というのは「すべてに価値がない」のとほとんど同義だ。「建前で許容しているかどうか」を判定するには、自分がじっさい深く関わることになったときに示す反応がすべてではないか。難民を受け入れることに熱心だった欧州が、難民たちがいざ殺到して私生活にその影響が見え出したとたん、かれらを徹底的に締め出す方向に動いたのは象徴的だ。不倫に寛容な発言をしているような人たちも、自分の伴侶や子どもや友人、とくに娘がそのようなことをしていても、同じように寛容になれるのかが知りたい。そのような、建前にすぎない「なんでも許される」という社会の雰囲気が、たとえば結婚の価値をなくし、結婚する気をなくさせ、子どもを減らすことに一役買っている。「なんでもゆるされる」のはうれしい反面、他人も同じ条件だから、とてもこわいことだ。

 

だから、自由と安定は両立しないが、いまの日本社会では自由も安定もほしいというぜいたくな考えが、人びとだけでなく、政府にまで蔓延している気がする。たとえば、もしも社会の安定のために少子化を止めたいなら、いつまでも物分かりのいいふりをして「なんでもあり」にしていないで、「結婚はしないと恥」とか「子どもは産んだほうがよい」とか「不倫や離婚はするな」という風潮にしていけば、自由が減る代わりに社会は安定するはずだ。たぶんそのほうが、自由より不安の除去を重んじる多くの人たちによって、幸福の総量はふえるだろう。自由は尊いものに違いないが、多くの人はいざ自由を与えられて「なんでもあり」の世界に放りこまれると、扱いきれずに不安になっていくもので、じっさい、これだけ自由な国で自由な選択のできる若い人たちの多くが、公務員や大企業を志望することにあらわれている。政府があえて、不安定な結婚制度を看過することで人びとの不安をあおり、自由を放棄させて、かつての日本やドイツのように、強い国家によりどころを求めさせようとしているのだとしたら、なかなかの戦略といえるかもしれない。