人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

家族の人間関係

いちばんはじめの人間関係は、ふつう、家族が相手になる。すべての人間は、うまれてくる子どもは、自分で家族を選べないので、人間関係のもっとも基盤になる、はじまりの部分は完全に運次第だ。少なくとも、家を出て自活できるようになるまでは、子どもが自分の力で家族の問題を大きく変えるのはむずかしい。程度はどうあれ、子どもの人生をコントロールしようとする親は数多いが、親が自分をどのように取り扱うかで、人生の印象が決まってくることもある。努力をすれば人生を変えられるのは事実だが、ぜったいに変えられないものもある。変えられないものについて悩んだり他と比べてもしょうがないので、生まれた環境が気に入らなくても、どうにか受け入れて、善後策を考えるしかない。

 

家族といっても、とくに最近はいろいろで、離婚なども増えているので、かならずしも両親がそろっていなかったり、血がつながっていない親子や兄弟なども増えているようだ。しかし、血縁というのは切ろうと思っても、自分の中にあるがゆえに死ぬまで切り離せない縁で、よいものでも悪いものでも、もっとも強い人間関係のひとつといえるかもしれない。誰もが誰かの血を引いて生きているので、人生を知るたびに、自分を知るたびに、血を意識するということは増えていく。

 

時代の流れが、家族関係を大きく変えている。携帯電話やインターネットが普及しはじめてから、子どもの交友関係などがわからなくなって、どことなく、同居している個人のようになってきているところもある。それは親子だけではなくて、夫婦もそうかもしれない。かつては家庭内に逃げ場はあまりなかったが、いまはわりと容易に逃避ができるので、向き合う努力よりも遮断するほうを選ぶ人も増えてきた。それはよいことかもしれないし、悪いことかもしれないが、かつてのような家族関係が崩壊しかけているのは、たしかなようだ。

 

いまは年長になるほど受難の時代かもしれない。親は子どもをしつける立場だが、ネットなどで検索すれば、一般的な情報はすぐに得られるので、年長者の知恵というものが、子どもに対してあまり有効でなくなっている。かつては、年老いて思考スピードや運動能力が落ちたあとは、経験からくる知恵や知識で尊敬を集めていたものが、個人レベルの知恵や知識が軽視されるようになると、もはやただ老朽化しただけで、じっさい劣化などという言葉がよく使われている。若い人にとって、一時的にはよい時代かもしれないが、年を重ねることが劣化でしかなような世界は、だれにとっても生きづらく、若い人にも希望がない。

 

結婚しない人も増えているが、男女平等や個人主義が強くなったぶん、家族というものが持っていたよいところが、なくなりつつあるからかもしれない。家族制度が強ければ、束縛は多いが安定もある。女性が男性に経済的に頼っていた時代のほうが、よくもわるくも結婚の持つ意義は大きかったが、なにもかも平等に近づけてみると、結婚できない女性も増えて、けっきょく、女性のほうを苦しめることにもなっている。男は男で、便利な世の中になって、ひとりでもどうにかやっていけるので、不安定で面倒な結婚をするくらいなら、ひとりでいたほうがよいという気にもなったりする。

 

家族、あるいは血族というものは、必要性のうえで強くつながるものなので、人間関係が多様化した便利な社会になって、ひとりでもどうにか生きていけるようになれば、関係が希薄になっていくのは避けられないが、これからどんどん日本が凋落していったら、必要に迫られて、家族が再生するかもしれない。