人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

思い出の人間関係

そこにいない人との関係というのも、人生にはありうる。

 

死者ではなく、いまを生きている人だとしても、人生の中でたぶん二度と会わないので、最後に会ったときの思い出のまま、ときおり思い出される、という人がいる。それはいやな思い出の場合もあるし、いい思い出のこともある。

 

いやな人との関係を当時のままに引きずっていると、俗にトラウマと呼ばれるような、ネガティブな状態になってしまう。もうその人との関係は終わっているはずなのに、その人との関係性、あびせられた言葉などがあまりに鮮烈なので、あたかもそこにいるように怖い、あるいは不快な思いをする。

 

よき人の思い出は、よき死者と同じで、いつでも引き出すことのできる慰めになる。しかし、よき思い出は同時に、もう二度と戻らないというさみしさも生む。思い出の人たちは変わらないし裏切らないので、あまりに思い出に依存しすぎると、いま目の前にいる人に対してフェアでなくなることがある。

 

たとえば、むかし付き合った相手と、いまの相手を比べてしまうようなとき、いまの相手のほうが素晴らしくても、思い出になった人間にはかなわない。それは死者と同じことなので、比較の対象にならない。比較すれば、すでに完結した死者や思い出のほうが、ぜったいに誠実に決まっているからだ。もし、目の前に、大事にしたい人が現れたときは、大事な死者や思い出に、決別するときかもしれない。

 

いやなやつらの思い出も、役に立つことがあるかもしれない。新たないやなやつが目の前に出てきたとき、思い出になったいやなやつと比べれば、ずいぶんましに見えるかもしれない。思い出のいやなやつは、いやなやつのまま変わらないが、目の前の人は改善の可能性くらいはある。思い出のいやなやつは邪魔くさいが、かれらを排除するもっとも有効な方法は、よき死者やよき思い出の人びとを増やして、連中を隅っこに追いやることだ。それには時間が必要だが、誠実に生きていれば、いつか時間が解決してくれる。目の前から誰もが去っていったとき、最後には、いやなやつすら懐かしくなることもある。

 

思い出のよき人たちを少しでも増やしていくために、いやなやつらを記憶にはびこらせないために、途中になにがあったとしても、別れのときには、少しでもなごやかに別れていきたい。