人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

70億分の1のわたし

いま、世界に70億の人間がいるといわれている。通算だと地球上にのべ400億くらいの人間がいたらしいので、人間がこんなにも増えたのは、ほんとうについ最近だ。日本では過疎化が進んでいるというが、俯瞰すれば、適正な値に揺り戻されつつあると思ったほうがよい。

 

ひとりの人間の命は地球よりも重い、と言った人がいたようだが、そんな絵空事を信じる人はいないだろう。世界各地で、毎日のように、人は簡単に死んでいる。

 

あくまで仮説として、「人の命の重さはその分母に反比例する」としてみよう。まずは極端に、核戦争でもおきて、世界に男女10人ずつしかいなくなった状況と、世界に70億の人間がいる現在を比べてみよう。

 

感覚的には、それぞれの人間に対して他者がもつ意味合いは、前者のほうが圧倒的に大きそうだ。仮に世の中の仕事をいくつかに分類したとしても、20以上はあるだろうが、10名の男女がそれぞれひとつの役割を担っていた場合、だれかひとりが欠けてもその代りはいないことになる。70億も人間がいれば、だれかがいなくなっても、代えはいくらでもいる。もちろん、血のつながった家族のように、他の人間では代えがきかない例があるにしても、機能としての家族ならいくらでも代えがきくのは、昨今の離婚や再婚の増加でもわかる。SNSなどを通じた友人関係も、数百人、数千人などものすごい数になっている人もよくいるが、そのすべてを「友人」だと感じている人はさすがにいないだろう。そう感じているとすれば、友人の定義がずいぶん薄まっているということになる。分母が増えれば、そのぶん、相手に割ける感情や時間が物理的に制限されるわけだから、意味合いが薄まるのはとうぜんの結果に思える。

 

反面、じっさいは70億分の1に過ぎない人間が、とくに先進国では、スマホ等の個人情報ツールで「わたし」の感覚が肥大化して、自分がとても特別である、という風に感じやすくなっている。ここに現代のむごさがある。「特別な自分」が、社会や周囲の人間から「70億分の1の代えのきく存在」として扱われる。そしてじつは自分もまた、他者のことを「代えのきく存在」として扱っている。

 

人間関係というと、他者との関係ばかりが気になりがちだが、もっとも身近な人間関係は、自分との関係だ。他者はどんなに代えがきいても、自分にとって自分の代えはいない。自分は他者にとって70億分の1にすぎないと認めながら、自分にとっては1分の1だということを忘れずに、自分自身の感じていることに背を向けないのは大事なことだ。人間関係のはじまりは、自分の声をよくきくことだ。もっとも身近な人間である自分をないがしろにする人間は、たったひとりの他者とでさえ、よい人間関係は作れないだろう。

 

こころに余裕があれば、他者もその人にとっては1分の1なのだ、ということを、なるべく忘れないことだ。それがやさしさというものの一部かもしれない、と思う。