人間関係

混迷の某国から人間関係について考察した備忘録。

栗城とギャッツビー

一部で有名だった栗城という山登り中継をする人が、8回目のエベレスト挑戦で死んだという。ネットテレビで生中継をひかえ、敗退して下山中に死亡した。まさか死にはしないだろうという人もいたし、いつか死ぬだろうと見ていた人もいた。

わたしも多少、ひとりで積雪期の登山などをする関係で、この人のことは知っていた。うさんくさく、危なっかしい人物とみていたが、彼自身はなにかしら純粋な動機に基づいているようにも見えた。こういう人物は、その人自身よりも、その周りに群がる「かすみたいなやつら」をあぶり出す。

明らかに実力不足の彼を「応援」し、もてはやし、死に至らしめた連中の、企業の、名前と顔を、よく覚えておくといい。

彼の動機がよくわからない、YouTuberの亜種のようなものだ、という人たちもいるが、彼の動機は、彼自身がすでに公言していたように、「彼女に振られたこと」がその核心にあったのではないか。ある種の男にとって、女に去られるということは、半身をもがれたがごとく、一生ものの苦痛になる。どんな手を尽くしてでも、取り戻したいと願う。それが無理なら、自分の存在を少しでも深く彼女の中に刻み込みたいと思う。

彼は、自分の価値や存在を知らしめるために、頑張れば実現可能な等身大の目標ではなく、ほとんど誰もなしえていない世界最高レベルの課題にあえてチャレンジすることで、他のチャレンジャーたちと同列であるかのように見せ、自分を本来よりも高く底上げして見せたかったのかもしれない。そこに至るために、本来の自分をわかっていながらファンの求める道化を演じ、金を集めて挑戦を続けてきたのではないか。

グレート・ギャッツビーというアメリカの小説がある。とても有名な小説だが、ギャッツビーという男が、かつて愛した女の心を取り戻すために、あらゆる手を使って大金持ちになり、人妻になっていたかつての恋人の心をいっときは取り戻すが、結局、彼女は夫を選び、最後は失意のうちに、一連の出来事が招いた手違いで殺されてしまう、という話である。

栗城氏は、ギャッツビーにたとえるほどグレートではなかったかもしれないが、そういう目で見てみると、失われた愛を追いかけて絶望的にもがく、ひとりの青年の物語に見えてくる。彼にとって、登山もエベレストも目的ではなく手段にすぎなかった。グレート・ギャッツビーの主人公同様、彼を「肯定することはできない」としても、少なくとも、かれは、ギャッツビーと同じように、かれの取り巻きや、叩いていた連中全員を足したよりも、値打ちのある人間だったのではないか。

「だれもかれも、かすみたいなやつらだ」
「みんな合わせても、きみひとりの値打ちもないね」

主人公がギャッツビーにかけた、最後の言葉である。(村上春樹訳)栗城氏に、この言葉を贈りたい。